早雲と玉縄北条氏六代

北条早雲(伊勢宗瑞)は、永正9年(1512)三浦半島攻略の拠点となる玉縄城を築城し、玉縄城の城主に次男氏時を据えました。そして同年8月、早雲は三浦道寸の岡崎城(平塚市岡崎)を急襲。その猛攻を道寸は支えきれずに、住吉城(逗子市小坪)へさらに新井城へ(三崎町小網代)と逃げますが戦上手の早雲はここで深追いをせず攻撃を一時やめ、鎌倉に入り、鶴岡八幡宮の神前に戦勝を祈るとともに、荒れ果てた社殿の復興を誓って和歌を奉納します。それが「枯るる樹に又花の木を植え添えてもとの都になしてこそみめ」です。永正9年8月13日のことでした。そして早雲は永正13年(1516)ついに相模の最大勢力だった三浦道寸、義意父子を新井城に攻め滅ぼします。これによって後北条氏は、相模、三浦を制し、関東全域の経略を開始します。しかし早雲は、その3年後の永正16年(1519)8月15日、伊豆韮山城にて永眠しました。享年88歳(諸説あり)遺言によって箱根早雲寺に葬られました。

<玉縄城初代城主、北条氏時>(~1531没)<玉縄城二代城主、北条為昌>(1519~1542)<玉縄城三代城主、北条綱成>(1515~1587)と続く玉縄城主で勇猛不敗の名将と称えられたのが、黄八幡で有名な北条綱成です。二代小田原城主、北条氏綱に養育された青年武将の綱成は、合戦のたびに手柄をたてます。生まれながら武道の志高く、戦場には朽ち葉色の旗に「八幡」と墨書して差し物としていました。合戦になるとこれを振って真っ先に進んだところから、世の人はこの綱成の姿を「地黄八幡」と呼び称えました。綱成は、後に二代城主為昌の養子(氏綱の娘婿説あり)となり、天文11年(1542)為昌の死去に伴い、玉縄城の後継者三代城主になります。天文15年(1546)の河越の合戦では、河越城を守っていた綱成が大活躍し、北条氏の武蔵進出に道を開きました。綱成は、玉縄衆を率いて玉縄一帯を治めると同時に、小田原北条氏の軍事力の中心として、常にその先陣を務め、前線防衛の任を果しました。また小田原北條三代氏康の名代として関東、奥州の大名に対する外交手腕も大いに発揮しました。天正15年(1587)没73歳。

<玉縄城四代城主、北条氏繁>(1536~1578)<玉縄城五代城主、北条氏舜(うじきよ)<玉縄城六代城主、北条氏勝>(~1619)が玉縄城最後の城主です。