鎌倉に城

鎌倉にひとつだけあった戦国の城、それが500年前に北条早雲(ほうじょうそううん)が築いた「玉縄城」です。

1512年、北条早雲(伊勢宗瑞)は三浦道寸を追い、相模を席巻し、鎌倉に入り、 鶴岡八幡宮に参拝して荒廃しきっていた鎌倉と八幡宮の再興を誓って、一首を奉納しました。

 

「枯るる樹にまた花の木を植ゑ添へてもとの都になしてこそみめ」

 

この一首こそ室町の秩序を一掃し、民のための秩序を希求して、関東の地に覇権を打立てる 早雲の生涯を予告するものでした。
おなじ年、この誓いを胸に早雲は、緑濃い玉縄龍脈の頂きに鎌倉の城を築いた。 それが後に江戸城や川越城と並び「関東の三名城」と謳われた堅城、玉縄城でした。 玉縄城は、まさに民のための国づくりという早雲の理想によって築かれた城でした。


武家の事をつくったのは頼朝だけではない。

さて、早雲の後を継いだ六代の城主がまた名君揃いです。
玉縄城の初代城主になったのは早雲の次男の北条氏時。二代城主は早雲の孫にあたる北条為昌、 そして三代城主が地黄八幡の幟で名高い戦国の英雄、北条綱成です。
さらに氏繁、氏舜、氏勝と六代の玉縄城主は、いずれも文武両道に秀でた名君でした。 それぞれに早雲の誓いを受け継ぎ、鶴岡八幡宮の改修を進め、鎌倉のまちを整備し「民のための国造り」 の理想のもとに「四公六民」の善政を敷いて民の繁栄を図ったのです。
戦国時代、鎌倉の主人公は「玉縄北条氏」でした。