ボランティアするひと

玉縄城址まちづくり会議 会長
荒井 章
発行:2019/10/07

ボランティアをする人の顔はいいなあ、とボランティアをしながら思う。

社会に閉塞感が漂っている。 どこかオカしいとその行詰まりを肌で感じない人はいない。政治から「与えられる変革」を  WE can change と信じる人もいない・・・そんなときも、確かな足取りで、 一番「いい顔」して汗をかいているのは、今、ボランティアをするひとじゃないかと思う。

その顔は、 「こっちの水は甘いよ」という損得勘定の囁きにさっぱり反応せず、グローバルな視点、から始まって 今なお市場原理主義の信仰を説く如何なる洗脳の試みにも乗らず、システム疲労を起こして店仕舞い寸前 の社会でいかにスマートに立ち回り、いかに自分の利益のみ確定させるかに腐心するエゴにも縁がないかのようである。


ボランティアの力の源は「先駆性、自発性、無償性」にある。
8年の経験から付け加えるとその力はいまの 社会が失っている「利他と協働と快感性」からくる。それは恐らく人間という生命システムの基本設計を忠実に 反映しているものではないか。そう思う。自分のためだけではない汗をかいてみれば実感できることだ。 真夏の直射日光を全に浴び、黙々、ずぶずぶと汗みどろになって、それなのに時折呆れるほどの眩しい笑顔をみせながら、 草刈りをしている。側溝のゴミを運んでいる。落ち葉を掃いている。物思いに耽っているような目をして。 まるで「北京で蝶々が羽ばたくと、ニューヨークで巨大なハリケーンが起こる」という非線形の変化を予見するかのように。 この坂道の小さな蝶の羽ばたきがやがてこれからの時代に「巨大な変化」の嵐を巻起すことを疑わないかのように。 イメージメーカーの遠い目をして。


現実に、この地域に変化が起きている。
歴史の道も、公園も、歴史資料館も、祭りも実現した。 それは地域エゴや行政エゴを離れ、市民と行政と地権者との「協働」に辿りついたときに、 当たり前のように実現した。「ボランティアと協働」、このお金にはならなくても生命システムに 「快」をもたらすような組合せこそ、これからの社会システム変換のカギになる筈だ。 すくなくとも人をエゴの俗物に貶めんとするアベノミクスへのカウンターパワーになり得るとしたら、 この無償の汗かき精神だろう。「貨幣を超えた新たな価値」を大切にする社会―ボランティアを するひとの目はそれを遠望している。そう感じる。

そしてもう一つ、気づいたことがある。ボランティアの活動は「托鉢」ではないかと。 ボランティアの汗かきは「喜捨」でもあると。釈迦は托鉢に出る弟子に言った。 貧しい家から喜捨を受けよと。托鉢は自分たちがもらうためにするのではない。 他人のよろこびのためにもらってあげるのである。喜捨=奉仕することで得られる歓びの ために托鉢=奉仕活動を行うのである。無償の汗かきは托鉢であり喜捨でもある 。宇宙は、きっとそれをよろこぶのである。そして宇宙が、われわれにあらたな歓びにして返してくれるのである。