⑤池状遺構(玉縄城主の館址)(いけじょういこう)

本丸南麓の谷戸には、幅約200mの館址が発掘されました。時期をずらしての開発のため最近になり一帯に遺構があることが証明され、この陣屋坂公園の南側には、戦国時代玉縄城主の館があったと分かってきました。

開城 後北条から徳川へ

豊臣秀吉による天正18年(1590年)の小田原征伐において、玉縄城主六代北条氏勝は山中城の守備に就いていましたが落城が迫り責任をとって自害を決意。しかし弟の北条直重らに諌められ思い留まり、敗残兵(毛利家が残した文書では700騎)を伴い落ち延び、諸将が集結する小田原を素通りして本拠地玉縄城に戻り籠城しました。玉縄城は徳川家康軍に包囲されましたが、地元の龍寶寺住職からの説得により4月21日に、降伏、開城となりました。

以降氏勝は、下総地方の北条方の城の平和的な開城に尽力し、戦後は徳川家の家臣となり、下総岩富城1万石の領主となり、岩富藩を立藩しました。徳川政権下においても玉縄城は重視され、家康側近の本多正信・水野忠守の居城となりましたが、慶長20年(1615年)の一国一城令を受けて元和5年(1619年)に廃城となりました。

その後、一門の松平正綱が22,000石を受けて玉縄に入封され玉縄藩を立藩、城の南山麓(現在の陣屋坂)に玉縄陣屋を建てました。しかし3代藩主・松平正久が元禄16年(1703年)2月に上総の大多喜藩へ移封となったため、廃藩となりました。また寛政4年(1792年)に松平定信が海岸防備のために玉縄城の再興を計画したが、実現はしませんでした。(徳川家康時代玉縄城の城主は、本多正信 水野忠守 松平正綱 松平正信 松平正久)

陣屋坂 今の玉縄城址

現在の地名に残る「鎌倉市植木字相模陣」。相模陣とは江戸期に玉縄藩の陣屋があったことを意味しています。
今は「陣屋坂」とよばれて歴史の痕跡を僅かに残すのみですが、その陣屋の主が徳川玉縄藩の初代藩主であり、日光杉並木を残したことでも知られる松平正綱でした。

この「陣屋坂」においてあらたな玉縄城の遺構の発見がありました。大船からバスで藤沢に向かい植木のバス停から陣屋坂を上がって中ほど左側の地点が、江戸時代初期の松平陣屋があった場所です。その陣屋のさらに下の層から、玉縄北条氏時代の大きな池と住居跡と水路等が今から30年も前のマンション建設のための試掘の結果出てきたのです。

その後、玉縄城址まちづくり会議では歴史家を招いて何度もセミナーを開き、発掘資料の分析を進め、ここにあったのは恐らくは城主クラスの大規模遺構であろうと推論した。今では玉縄城の「城主の館址」であると、歴史家の間にも見方が定着しつつあります。

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