②七曲坂(ななまがりざか)

何重にも曲りながら玉縄城の壁面沿いの坂を登り、太鼓櫓址を経て大手門(現在の清泉女学院裏門) へと向かう市道が、歴史の道七曲坂です。この坂下から堅固な城構えを見上げ、上杉謙信が攻略を諦め兵を退いたとも謂われるところ。私たちが玉縄城への「ご登城コース」と呼んでいる道であり、 坂上の太鼓櫓址と併せ、私たちが進めている環境活動の中心的な場所でもあります。

この道は、私たちが美化奉仕をするまでは路面が荒れ果て、アレルギーのもとになる外来植物カミヤツデが繁茂し、 殆ど通る人もいないような道でした。

私たちは市道を管理する鎌倉市に協力しこの七曲坂の美化奉仕を続けると共に、 市へ働きかけ周辺地権者の協力もあり、平成23年12月に史跡環境を損なわない配慮のもとに市道の改修が実現し、それ以来、多くの市民に愛される道になっています。

歴史の道七曲坂―ここには玉縄城址の歴史自然を守りながら生活道路を維持しようという市民、 清泉女学院、みどり幼稚園、鎌倉市との協力によって復活した道です。

坂を上っていくと、坂の中ほどに、一息ついてもらうベンチが用意されています。ベンチの左手の平場(幼稚園のフェンス内)は武者だまり、そこから、右上の城址の急斜面に沿って見上げると、その頂きに、矢射ち場(三角平場)の遺構があります。(以前は木の間ごしに黄八幡旗がみえました)

ここは七曲坂を攻め上がってくる敵勢に上から矢を射かけ、つぶて石を投げつけ城を守る、重要な防御の場所でした。どうぞ、上と下の「立体遺構」を、お確かめください。

七曲殿(七曲殿)

七曲殿(ななまがりどの、生没年不詳)は、戦国時代の女性。名は不詳。法号は新光院殿窓泰太空大姉。玉縄城の大手口七曲坂付近に居住したため、七曲殿と呼ばれました。

父は相模国の戦国大名 北条氏康。従兄弟にあたる玉縄城城主北条氏繁に正室として嫁ぎ、北条氏勝、北条氏舜、北条氏成、北条繁広を産んだ。小机城城主であった北条三郎(北条幻庵の子)から夫・氏繁を経て、小机本郷(現横浜市緑区、港北区)に所領を有していた。

氏繁の死後、天正11年から14年(1583年 – 1586年)にかけて複数の朱印状を残している。書状の内容は自身の所領や被官に関するものだけにとどまらず、玉縄北条家の被官に関する朱印状も出していることから、この時期に玉縄北条家の家政を取り仕切っていたことが推測されています。

 

抜け道があった?

七曲坂の途中にやぐらの址が見えます。今は塞いでありますが、戦の時に本丸からここを通って七曲殿に知らせた「抜け道」といわれています。

※諸説ございます。

 玉縄城址歴史トレイルトップへ戻る

玉縄城址まちづくり会議 公式Facebookもぜひフォローお願いいたします!