④本丸大手門址(ほんまるおおてもんあと)
<玉縄城とは>
玉縄城は永正九年(1512)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれた城です。玉縄城が築かれた場所は古くは鎌倉街道、後に東海道と鎌倉を結ぶ中継地点という交通の要所にありました。北は大面川、西に滝ノ川(旧柄沢川)、東から南にかけては柏尾川が流れており、水運と同時に天然の水堀の役目も果たしていました。
城主は北条氏時、為昌と北条本家から輩出された後に、本家が最も頼りにしていた武将である綱成が継ぎ、氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が続きました。これら名君揃いの城主が守った玉縄城は、その堅固さから一度も攻め落とされることはなかったが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、徳川家康軍の説得に応じて開城しました。その後、徳川方の城になって、元和元年の一国一城令により、元和五年(1619)廃城となりました。
大手門址
ここ現在の清泉女学院裏門は、昔、玉縄城本丸の「大手門」でした。元々は本丸に向って土塁の真ん中をまっすぐ本丸に伸びた道が通っていました。当初は校門として使用されていましたがテニスコートを増設した際、埋め戻されて現在見られるような姿になりました。門の礎石が二つ残っていて、そのうちの一つが玉縄歴史館にある円形の大石です。裏門の左右に並ぶ家々のあたりは昔、空堀が巡らされていました。
諏訪壇(すわだん)
諏訪壇は、玉縄城の象徴的な場所です。ここには玉縄城三代城主北条綱成が、玉縄城の守護神として諏訪社から勧請した「諏訪神社」がありました。現在、植木にある諏訪神社は嘗てこの場所にあったものです。玉縄城の廃城後、現在の場所に古くからあった鎌倉権五郎景政を祀る御霊社と一緒に祀られました。
ここの標高は約80m、本丸との高低差、20m、全長は60m、幅25~30mもあり、土塁というよりも立派な曲輪です。このあたりは地元では城山とも呼ばれていました。南の石段から諏訪壇へ登る途中、右に入って、崖の縁に立つと真下にみられる窪地は堀の址です。土橋状の畝に続く三角形の平場は、七曲坂方面を見下す監視場だったと考えられています。
蹴鞠場
江戸時代の書物『新編相模風土記』には「諏訪壇その北に続きて、麻里計場(蹴鞠場)等の名あり」と書かれている。その「諏訪壇の北東側の四角ばった平場」こそ、ここ玉縄城の「蹴鞠場址」です。ここは玉縄の歴代城主が「蹴鞠」をした場所です。強力な軍団を率いる城主や姫君たちが一方では京都風の雅な遊びを楽しんでいた。文武両道の玉縄北条氏の特長がここにもよく現れています。後北条氏への蹴鞠の伝播は、大永五年に(1525)飛鳥井家より北条氏綱へ「八境」、「両分」、「対縮」の伝授がなされたとの文書があります。