玉縄城址
玉縄城は永正九年(1512)北条早雲(伊勢宗瑞)によって築かれた城です。城が築かれた場所は古くは鎌倉街道、後に東海道と鎌倉を結ぶ中継地点という交通の要所にありました。北は大面川、西に滝ノ川(旧柄沢川)、東から南にかけては柏尾川があり、水運と同時に天然の水堀の役目も果たしていました。城主は初代氏時、二代為昌と北条本家から輩出された後に、本家が最も頼りにしていた武将である綱成が継ぎ三代となり、さらに氏繁、氏舜、氏勝と綱成の家系が続きました。これら名君揃いの城主が守った玉縄城は、その堅固さから一度も攻め落とされることはなかったが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めの際、徳川家康軍の説得に応じて開城しました。その後、徳川方の城になって、元和元年の一国一城令により、元和五年(1619)廃城となりました。
北条早雲は玉縄城を築城した年、三浦道寸を追い、鶴岡八幡宮でこう詠いました。「枯るる樹にまた花の木を植え添えてもとの都になしてこそみめ」。◆玉縄城は前後5回の戦歴を持ちます。(清泉女学院出版「玉縄城跡」による)第1回は、永正15年(1518)三浦氏の援軍上杉修理大夫朝興の軍勢を玉縄城の北方に陣を組んでくいとめた。第2回は大永6年(1526)11月、房州の里見左馬頭義弘の軍勢を玉縄城の南、戸部川(柏尾川)畔でくいとめた。第3回は永禄4年(1561)3月、上杉景虎の軍勢に包囲されたが頑強な玉縄城は陥ちなかった。第4回は永禄12年(1569)甲州武田勢によって、おんべ山砦が陥されたが玉縄城本城は安泰。第5回は天正18年(1590)豊臣秀吉の小田原攻めに際し、家康の軍勢に包囲されたが力づくでは陥ちず、城主氏勝の叔父大応寺(龍寶寺)の了達和尚の説得で開城された。このように力づくでは一度も陥ちることのなかった戦国の山城、それが玉縄城です。