後北条氏の時代の鎌倉・玉縄年表 |
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永享 | 10 | 1438 | 永享の乱。幕府が鎌倉公方足利持氏を攻める。 |
11 | 1439 | 足利持氏、永安寺で自害。 | |
享徳 | 3 | 1454 | 鎌倉公方足利成氏、関東管領上杉憲忠を西御門御所にて謀殺。 享徳の乱勃発。 |
康正 | 1 | 1455 | 足利成氏、下総古河に移り、古河公方を名乗る。 |
長禄 | 2 | 1457 | 太田道灌(上杉定正家宰=英勝寺が屋敷跡と伝える)、江戸城築城。 このころまで政権担当者の館があった? |
長禄 | 3 | 1459 | 上杉方の本陣として五十子陣(埼玉県本庄市)築城。 鎌倉街道上之道の利根川渡河地点。 |
応仁 | 1 | 1467 | 応仁の乱起こる。 |
文明 | 8 | 1476 | 長尾景春、関東管領上杉(山内)顕定に背く。 |
9 | 1477 | 長尾景春、五十子陣破却。 応仁の乱終息 |
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10 | 1478 | 足利成氏、上杉方と停戦・和睦。 | |
14 | 1482 | 足利成氏、幕府と和睦(都鄙和睦) 享徳の乱終息 |
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18 | 1486 | 上杉(扇ヶ谷)定正、が太田道灌を殺害。 | |
長享 | 2 | 1488 | 上杉(山内)顕定と上杉(扇谷)定正が戦う。(長享の乱) 鎌倉支配者の分裂 |
明応 | 3 | 1494 | 上杉顕定、上杉定正と戦い、相模國玉縄を攻略。 |
4 | 1495 | 東南海地震。東西太平洋岸の海上交通路が壊滅。 | |
永正 | 2 | 1505 | 上杉(扇谷)朝長、上杉(山内)顕定に降伏(長享の乱終息) |
永正 | 9 | 1512 | 伊勢宗瑞(北条早雲)、玉縄城を築く。 鎌倉街道上之道と中ノ道・下ノ道を扼する。 伊勢宗瑞、三浦道寸義同を破り、住吉城主三浦道合も敗れ、逗子延命寺で自害。 悟真寺が兵火で焼失。 |
12 | 1515 | 玉隠英璵、建長寺西来庵の再興を企画 | |
17 | 1520 | 梅田秀長の宅地に日舜が久成寺を建てたと伝える。 | |
大永 | 1 | 1521 | 日現上人、安国論寺の前身要法寺を創建し、この年山門の額が造られた。 |
大永 | 6 | 1526 | 関東管領上杉憲寛、扇谷上杉朝興、玉縄城を攻める。 安房の里見義豊が鎌倉に乱入し、北条氏綱の兵と戦う。 鶴岡八幡宮焼失。 |
天文 | 1 | 1532 | 北条氏綱、鶴岡八幡宮の再建を企画。 |
2 | 1533 | この頃、日蓮宗長勝寺の法華堂が建立。 | |
3 | 1534 | 鶴岡八幡宮上宮の廻廊の修築工事。 鎌倉・玉縄・伊豆・奈良の四組の番匠が受持つ。 |
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4 | 1535 | 鶴岡八幡宮の石階が石工孫右衛門によって築かれた。 円覚寺第百五十世叔悦禅懌が示寂。後、松嶺院が営まれた。 |
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6 | 1537 | 富士山爆発か?(極楽寺・稱名寺池で降灰確認) 『快元僧都記』に「卯刻興、地震、火神動」 |
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7 | 1538 | 第一次国府台合戦 北条氏綱、小弓御所足利義明・里見義堯と戦い、義明戦死(小弓御所滅亡) |
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8 | 1539 | 第4代古河公方足利晴氏、北条氏綱の娘芳春院殿と結婚 | |
9 | 1540 | 台風によるか、鎌倉、大風により八幡宮の山の木が四十本余り吹き倒され、建長寺の惣門・宝泉院・向上庵・正統庵等が倒れる。 北条氏綱、鶴岡八幡宮正遷宮を挙行。 |
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10 | 1541 | 泉円が寿福寺木造栄西像を修理。 泉円、長谷寺木造観音三十三応現身像を造立。 悟真寺が光明寺の快誉により、正覚寺として復興される。 |
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11 | 1542 | 由比ヶ浜の大鳥居が造立。 | |
12 | 1543 | 泉円か?長谷寺木造観音三十三応現身像のうち、比丘尼形立像を造立。 | |
13 | 1544 | 長谷寺木造観音三十三応現身像のうち、一躯を造立。 | |
14 | 1545 | 連歌師谷宗牧が鎌倉に遊んだ『東国紀行』 | |
15 | 1546 | 川越合戦。 扇谷上杉氏滅亡。 荏柄城(要害)に兵を籠める。 鎌倉大仏所泉円、三浦十劫寺木造不動明王像造立。 |
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17 | 1548 | 妙本寺、二度目の消失。 北条綱成が感誉存貞を開山とし、治国安民の祈願所として大長寺を建立。 雲版を寄進。 北条氏康、荏柄天神の再興造営のため関所を設置し、関銭を徴収。 現在の参道を整備か? |
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18 | 1549 | 北条氏康、扇ヶ谷の宝泉寺再興のため、泉谷山において竹木の伐採を禁じ、宝泉寺は再興された。 玉縄城主北条為昌(彦九郎)の室朝倉氏座像が逆修菩提の為に造立され、大長寺に納められた。 |
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19 | 1550 | 北条氏康が浄智寺蔵雲庵に寄進状を与える。 釣鐘を新造するために二貫七百文の地を与える。 寺領は五貫七百四十文となった。 ※氏康は数年前、鉄砲を製造するため伊豆山権現上宮の梵鐘を徴発して鋳つぶしたので、その梵鐘の代わりに浄智寺の鐘を召し上げた。その代わりのため。 |
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21 | 1552 | 平井城落城し、関東管領上杉憲政、越後へ逃亡。 古河公方足利晴氏、子の梅千代王丸(のちの義氏)に家督を譲る。 |
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22 | 1553 | 北条氏が鎌倉鍛冶の福本九郎二郎の棟別銭を免除。 | |
弘治 | 2 | 1556 | 里見義弘、鎌倉を攻めて敗れる。 鎌倉五山第一位大平寺住持青岳尼(足利義明娘)が寺を捨て、義弘と共に安房に渡る。 ※大平寺滅亡。 北条氏康、足利晴氏の子義氏を元服させて家督を安堵して葛西城に入れる。 |
3 | 1557 | 北条氏康、本覚寺玉林に上総への使僧の功として寺領を与え、同寺の棟別・飛脚・陣僧などの諸役を免除。 関東管領上杉憲政、上杉氏の重宝・系譜などを長尾景虎に譲って養子とし、関東管領職を継承させた。 |
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永禄 | 1 | 1558 | 第5代足利義氏、鶴岡八幡宮参詣。 玉縄城主北条氏綱夫人が没し、岩瀬大長寺に葬られた(大頂院光誉輝雲)。 |
2 | 1559 | 極楽寺蔵木造伝阿難陀立像造立。 日現上人、妙本寺の復興に努め大堂が成った。 材木座本興寺が造営。 城廻円光寺の開山、澄範上人示寂。 |
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4 | 1561 | 長尾景虎、関東出陣。 鶴岡八幡宮神前で上杉氏の名跡を継ぎ、関東管領となる。 景虎、玉縄城を攻めるも、北条氏繁が防御。 足利藤氏(春氏嫡子)、足利義氏を放逐して古河公方を継承。 |
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5 | 1562 | 鎌倉仏師長勤、箱根興福院蔵の木造千手観音像を造立。 足利晴氏の室芳春院の一周忌法要が円覚寺正続院で執行。 古河公方足利藤氏、北条氏康に敗れ小田原に送られる。 |
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6 | 1563 | 北条氏、玉縄城の塀の作事を相模中郡・三浦郡・武蔵国久良岐郡に課す。 塀の修理は五年に一度。 円覚寺住持奇文禅才が永禄四年上杉輝虎の来襲により紛失した円覚寺床暦を編纂。 円覚寺大火。 山門・仏殿・開山塔以下十余箇所が焼失。 |
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7 | 1564 | 第二次国府台合戦。 北条氏康、下総国府台で里見義弘を破る。 足利義氏が上総佐貫から鎌倉に帰座。 |
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8 | 1565 | 北条氏が玉縄城清水曲輪の塀の作事を相模東郡・三浦郡・武蔵国久良岐郡に課す。 揚玉省琨が円覚寺雲頂庵・法珠院を不琢省球に譲った。 |
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10 | 1567 | 足利義氏が覚園寺に下総國猿島郡古河のうち田畑三貫文分を寄進。 大船常楽寺の文殊菩薩坐像が彩色再興。 施主の一人に玉縄城の家臣、甘粕太郎左衛門長俊。 奇文禅才が大慶寺本尊釈迦如来坐像を造立。 |
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11 | 1568 | 極楽寺の木造伝阿難陀像が修復。 | |
12 | 1569 | 覚園寺大地殿を建立。 北条氏康、やらい組のため、鎌倉番匠を三浦郡に派遣。 |
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元亀 | 1 | 1570 | 仏師快円が寿福寺の木造観音菩薩坐像を造立。 足利義氏が鶴岡八幡宮寺に仏牙舎利・牛球を奉納。 北条氏、国府津・花水・鎌倉等の番匠を湯本に招集。 鶴岡八幡宮浄国院賢立が横須賀市満願寺像の源頼朝坐像に銘を書いた。 |
2 | 1571 | 玉縄城主の北条康成が円覚寺仏日庵主鶴隠周音の望みにより、扇ヶ谷瑞心屋敷を寄進し、開発させた。 | |
3 | 1572 | 玉縄城主北条氏繁、鶴岡八幡宮領相模國高座郡星野の田畑を鶴岡香象院の直務とした。 氏繁、仏日庵主の鶴隠周音に垂木屋敷を与え、彼の所領とした。 極楽寺炎上。 |
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天正 | 1 | 1573 | 永禄六年焼失した円覚寺仏殿を再建するため「瑞鹿山円覚寺仏殿地割之図」が製作された。 ※大工高階大和守次泰、棟梁渋谷宗右衛門尉盛次、棟梁弟子山井清三為定 北条氏政、大平寺を廃寺とし、建物を円覚寺に移す。 室町幕府滅亡 |
2 | 1574 | 北条氏が鶴岡八幡宮放生会に際し、神馬銭を給付した。 玉縄城主北条氏繁が天下泰平・武運栄盛を祈願し、鶴岡八幡宮・若宮など、七か所の宝前に神鏡および雲版一面づつを奉納。 |
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3 | 1575 | 北条氏勝が龍宝寺を現在の位置に移したと伝える。 浜名時成が鎌倉能成寺分の三浦森郷の地を大巧寺に寄進。 |
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4 | 1576 | 北条氏が鎌倉の番匠六人を小田原に徴用した。 建長寺の塔頭宝泉庵が二十余年にわたり断絶していたため、その再興をはかることとした。 |
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5 | 1577 | 海蔵寺の仏殿(薬師堂)が建立された。 間宮豊前守が宝泉庵を再興した。 |
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7 | 1579 | 玉縄城主家臣甘粕長俊が大船熊野神社を勧請。 北条氏政が、本覚寺僧がこれまで敵地への使僧を務めてきたことへの労功を賞した。 |
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8 | 1580 | 鍛冶谷村の八幡宮が建立された。 | |
9 | 1581 | 日蓮聖人三百年遠忌が行われ、妙本寺住職が池上本門寺住職を兼ねた。 | |
10 | 1582 | 妙本寺常住物の大太鼓ができた。 | |
12 | 1584 | 小田原北条氏が鎌倉番匠の源二三郎を小田原に徴用し、御屋敷の細工などをさせた。 | |
13 | 1585 | 円覚寺無学祖元三百年忌に茶壷(染付小壺)を寄付。 | |
14 | 1586 | 北条氏直、鎌倉代官大道寺政繁に鎌倉祇園社の祭礼での喧嘩口論・押買狼藉などを禁じた。 | |
15 | 1587 | 玉縄城主北条綱成が没した。 北条氏が鎌倉年貢より鶴岡放生会神馬銭を支出させた。 |
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16 | 1588 | 北条氏直、所願成就したため鶴岡八幡宮に上野国邑楽郡館林の二十貫文の土地を寄進。 | |
17 | 1589 | 戦乱により大破した報国寺を住持洋呼乾栄が約50年かけて再興した。 | |
18 | 1590 | 豊臣秀吉、小田原攻め 北条氏、寺社中に兵糧の備蓄を禁じた。 寿福寺の梵鐘「いぼなし鐘」も小田原に運ばれ、鉄砲の玉となったという。 名越新善光寺、葉山町上山口に移転。 北条氏勝、山中城攻防戦後、玉縄城に帰り、玉縄城開城。 |
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図説鎌倉年表などを参考として作成 |