玉縄城は永正九年(1512)、伊勢宗瑞(北条早雲)によって対立する三浦氏の抑えの城として築かれたといわれています。

三浦氏が滅亡した後は鎌倉を中心とした地域の支配と水軍の拠点として存続しました。

歴代城主であった玉縄北条氏は小田原北条氏最強の軍団を率いて最前線で戦っていました。

関東の支配が徳川家康に代わると本多正信や松平家といった徳川家重臣の城として元和の一国一城令で廃城になるまで続きました。

現在城址には高さ20mの臣大な塁壁である諏訪壇を始め、その北東には城主たちが蹴鞠を楽しんだという蹴鞠場の曲輪や当時の姿を残す堀切、七曲がりの坂を頭上から守るための矢射場である三角平場などが残されています。