駅ハイ ⑤植谷戸西公園

七曲殿

七曲殿は、戦国時代の女性で北条氏繁正室。名は不詳です。法号は新光院殿窓泰太空大姉。玉縄城の大手口七曲坂付近に居住したため、七曲殿と呼ばれた。 父は相模国の戦国大名北条氏康。玉縄城城主 北条氏繁に正室として嫁ぎ、北条氏勝北条氏舜北条氏成北条繁広を産みました。

植谷戸西公園からマンションのあたりに、玉縄城四代城主の奥方、七曲殿の館がありました。館の前には城の中心部へ向かう重要な 道路も通 っていました。発掘調査された下の面は15世紀後半から16世紀前半まで、上の面は16世紀後半と推定され、2基のやぐらや掘立柱建物跡8軒、井戸5基、石垣状遺構 1 基、五輪塔の一部などが見つかりました。上の面の奥の遺構には茶室をふくむ多くの館址が発掘されています。
七曲殿は、夫の氏繁が亡くなると、若き五代氏舜、玉縄城最後の城主六代氏勝を補佐し、義父綱成が戦場にあるときは城主の役割も兼ねていました。(館の発掘調査の詳しい図面は右側の階段を上った公園の「玉縄城跡看板」にあります)

お茶の水?

七曲殿の館では、「茶」を立てる上質の水がなく、探したところ植木の山本家の井戸の水がおいしいと分かり、植谷戸から大切岸を切り、近道を侍女が「玉の井戸」に毎日この水を汲みに来たといわれています。今でもコーナンの前の細い道の中ほどにこの井戸はあります。
七曲坂の途中にやぐらの址が見えます。今は塞いでありますが、戦の時に本丸からここを通って七曲殿に知らせた「抜け道」といわれています。

特徴的な道路

植木新宿:植谷戸では特徴的な道路が二つある。
一つは植谷戸を南北に貫く道路で、幅二間の道路幅員の両側に幅四尺(約1,3ⅿ)の溝が存在します。
こうした両側測溝を持つ道路は中世鎌倉の道路の基本構造であり、平安京の都市区画を記した『延喜式 京程』からとったものである。このことから類推されるのは、植谷戸のこの道路はまちの基軸線として、例えば当時の鎌倉で両側測溝が明確に確認される道路は若宮大路であるから、若宮大路をモデルに造られた道であるかもしれない。龍寳寺の遺構案内看板の『相中留恩記略』「龍宝寺図」に一部描かれています。
もい一本は東にほぼ直角につながっている。これも幅二間の道でその東側は現在、新道に連なり、公図上は県立大船フラワーセンターの中に続いており、柏尾川に沿って角をもって曲がり、直線で戸部橋に至っていた。
畷(なわて)であろう。この道は玉縄城からの木戸(城戸)であり、玉縄城の東門であった可能性が高いのではないだろうか。
植木新宿では、1580年代から、武装準備で大筒なども製造していました。